増田屋次郎介たる起源とのれん分けの創生。
増田屋全店に息づく歴史と江戸の心意気をのれんに繋ぐ。
寛保二年(1742年)江戸時代中期、浅草吉原五十間口(現日本橋人形町)に「釣瓶蕎麦(つるべそば)」と「若松屋幸助」と云う蕎麦屋があった。
明和五年(1768年)江戸時代後期、「若松屋幸助」の店を譲り受けた増田屋次郎介が、「釣瓶蕎麦」共に継承し、同九年、伏見町(現台東区千束四丁目)にのれん分け店「釣瓶蕎麦」と「増田屋清吉」と云う蕎麦屋が開店し、浅草名物となった。
これが「増田屋」の名称の起源となり、創祖は「増田屋次郎介」である。
安永四年(1775年)初代増田屋次郎介の店を、次郎介から半次郎が家業を継ぎ、さらに、天明三年(1783年)半四郎へと名義が変わった。
この後、約百年間の増田屋の経緯については不明である。
明治二十三年(1880年)武久留吉氏が麻布区霞町にあった増田屋の支店として、同区笄町(現渋谷区広尾)の日赤病院前に開店し現在に通ずる創業者として、名を残すことになるが、店は他人に売り渡すことになり、のれんは本店から支店へと繋がれた。
新たな支店として、明治四十五年(1912年)古道文次氏が開業、渋谷から原宿に移店したが、まもなく関東大震災に遭遇。
古道文次氏は、大正十四年に赤坂区青山南町(現南青山)に移店し、旧原宿の店は、弟の鈴木重吉氏が継承した。
復興に努力し、自ら「のれん分け」にも励み、増田屋店舗も九店を数える発展途上にある時、昭和16年12月、大東亜戦争(米称太平洋戦争)が勃発し、後に本土東京は空襲に合い、壊滅的な戦火の中、店は焼失した。
昭和26年5月、敗戦占領下の折、疎開から戻る頃、増田屋も七店舗が揃って営業を始めており、古道文次氏はその全員の賛同を得て、増田屋同志を「増田屋のれん会」として組織を創設し、活動も盛んとなりぞくぞくと支店が開設するようになりました。
この頃、運営する規約の製作と「会旗」の製作が整い、正式にのれん会運営の基礎が確立しました。
昭和36年頃になると、麺類食ブームも相まって組合活動も活況、増田屋の名称の乱用を防ぐ意味でも、商号と商標の登録許可を得て、堅実なのれん分け店の開設に励むこととなり、今日まで、のれん分けという組合活動を継承することに繋がりました。
こうして、増田屋は、のれん分けという運営方式と、そののれんを分けた同志による組合活動「のれん会」で、蕎麦屋という飲食業界を担って来ました。
しかし、昨今、企業の大きな資本の元、同じ店名による全国展開を行う企業群からなる「大手外食産業」というカテゴリーが生まれ、企業の開発部が作るメニューを、専門の調理拠点であるセントラルキッチンで大量調理し、ハブとなる全国に網羅される支店に配布し消費者に提供する、チェーン展開が主流となった。
この支店のことを「チェーン店」と呼び、一定の条件をクリヤーした経営者がチェーン店を運営できる方式を、「フランチャイズ展開」と呼ぶようになる。
一時的に研修期間などはあるだろうが、いわゆる、修行元であるのれん店で年季明けした者に与えられる、のれん分けとは一線を画す運営方式であり、全国どこのお店でも同じ味を提供するチェーン店とは、決定的に違うところであろう。
それは、増田屋というのれん分けした個々のお店で、その立地や地域性などを大切にした、地元ファーストであるという、飲食店として基本的な石杖が、これまで尽力して来られた先輩から繋ぐ、増田屋のれんの本当の意味ではないかと考えます。
のれんが繋ぐ増田屋の石杖、それは、それぞれの地で精進し続ける、地元ファーストな「増田屋」、他なりません。
それぞれの増田屋がそこにあります。